2008年02月25日

新しい人間 第2章 福音書における誘惑の概念 パート3

キリストの3番目の誘惑では、またしても悪魔が口火を切る。「神の子なら…」と。私たちが理解しておかなくてはならないのは、キリストはすべての形の自己愛とすべての種類の地上の愛と、そこから派生するあらゆるものに対して戦わなければならないということだ。彼は自分の中の人間的なレベルから起こる、いかなる自力の感覚も克服しなければならない。そして、それを高次のレベルの支配下に置くことができるようにしなければならない。さて、本当の意味での誘惑とは、人間における低次のレベルを高次の可能なレベルに関係づけているものでなければならない。マインドに留めておくべきは、福音書の中心的な概念とは、人間は低次の状態から高次の状態に移行するべきであり、これこそが内なる進化、あるいは再生であるということである。「神の言葉」はこの内なる進化に必要な手段を教えているから、福音書におけるすべての知性的な誘惑というのは、その言葉の真理、そして感覚の真理についての人間の私的な思考を指している。また、すべての感情的な誘惑というのは、自己愛と神の愛についてのものである。当然、低次のレベルと高次のレベルの間には不一致がある。それはちょうど植物の種子と苗の間に不一致があるようにとたとえて言うことができる。種子がそのままで生きることができるのは、自己愛に満ちた状態にたとえられるとも言えるし、あるいは種子は自身と自己の意志を、それを操作しようとする高次の影響に降伏させることができ、変容によって、苗になるとも言えるのだ。

 3番目の誘惑はルカの福音書において次のような言葉で与えられている。

 「そこで、悪魔はイエスをエルサレムに連れて行き、神殿の屋根の端に立たせて言った。神の子なら、ここから飛び降りたらどうだ。というのは、こう書いてあるからだ。『神はあなたのために天使たちに命じて、あなたをしっかり守らせる。』また、『あなたの足が石に打ち当たることのないように、天使たちは手であなたを支える。』イエスは『あなたの神である主を試してはならない』といわれていると、お答えになった。」
(ルカによる福音書4章9節〜12節)

 自己愛は必然的に自分自身を崇拝するだけのことであるのが理解できるだろう。だから、自己愛は神聖さが自分自身にあると見なすことができるし、実際にそうしている。つまり、低次のレベルが、自分は高次のレベルであると想像するので、神を試すのである。自分は無価値であると感じることができないから、自分を天まで膨張させるのだ。そして、自分の神聖さに酔って、自己幻想の狂気の中で、不可能なことを試みて自分を破滅させるかも知れない。

 悪魔による誘惑の話において、キリストは霊によって荒れ野に導かれたと書かれている。ルカによる福音書において、彼は「荒れ野の中を霊によって引き回され、40日間、悪魔から誘惑を受けられた。」とある。マルコによる福音書において、その表現はさらに強いものになっている。「それから、直ちに霊は彼を無理やり荒れ野に送り出した。彼は40日間荒れ野に留まり、サタンから誘惑を受けられた。その間野獣たちと一緒におられた。」(マルコによる福音書1章12節〜13節) マタイによる福音書では、「さて、イエスは悪魔から誘惑を受けるため、霊に導かれて荒れ野に行かれた。」となる。(マタイによる福音書4章1節)荒れ野で受けた誘惑は、それが描写されているどの福音書においても、洗礼者ヨハネによって授けられたイエスの洗礼のすぐ後に続くように構成されている。キリストが内なる光輝に満たされた、まさにその内なる光輝の霊によって、誘惑に導かれるというのは奇妙に思える。しかし、キリストは教えている。人間は霊によってまた生まれなければならないと。それに、誘惑なくして変容は起こりえない。霊は高次と低次の接続媒体である。キリストの中の人間は変容を起こし、神的なレベルに引き上げられなければならない。そして、霊は中間的な媒体なので、高次のレベルへの一連の変容によって低次のレベルを描写して、霊の働きが人間を荒れ野に ― いや、むしろ完全な混乱の中に ― 導くことと、人間の自己進化のための役に立たないものすべてを彼の後ろに取り去り、成長し理解できるようにするものだけが彼の前に置かれるようにするために、人間が自分の中のあらゆる要素によって誘惑を受けることをその条件にするというわけである。悪魔は人間の中で進化できないことのすべてを表している。そして内なる進化といういかなる概念をも望まずに嫌い、中傷と誤解と自分勝手なやり方を望むということのすべてを表している。これらすべては、本来の内なる進化を探求する一人の人間から徐々に取り去らなければならず、彼の代わりをすることも、彼を支配することも許されないのだ。すなわち、人間の中の物事の順序を変えなければならない。最初にあったものが最後になるのだ。だから、話の中の一つにおいて、キリストが悪魔にこう答えたのだ。「退け、サタン。」誘惑によって起こったこの新しい内なる順序は、一度に起こり得ないことがルカの言葉から明らかである。そこには、キリストの誘惑が終わっていないと書かれているのだ。「悪魔は、時が来るまでイエスを離れた。」
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2007年07月01日

新しい人間 第2章 福音書における誘惑の概念 パート2

いくつかの違った方法で私たちは誘惑を受けることもありうるし、いくつかの違った方法で誘惑に屈服することもありうる。一般的な誘惑について話そう。すべての誘惑は、(もしそれが本当なら)人間の中で2つの物事の間に闘争があることを意味していて、それぞれが支配力を得ることを目指している。この闘争には2つの形態がある。それは常に何が真実で何が偽りか、あるいは何が善で何が悪かのどちらかである。人間の人生の内なるドラマ全体とそのすべての結果には、彼の内なる発達という点から見ると、何が真実で何が偽りか、そして何が善で何が悪かについての内なる闘争があるのだ。そして実はそれは誰もがマインドとハートの奥底で常に考え、疑問に感じていることに関することなのである。マインドは何が真実かを考えるためにあり、ハートは何が善であるかを感知するためにある。

 真実に関する、最初の誘惑を取り上げてみよう。これは人間の知性的な生活の中で起こる。誰にでもその人が真実だと見なしているようなことはある。知識それ自体は真実ではない。というのも、私たちは多くのことを知っているが、そのすべてが必ずしも真実だとは思っていないか、またはそんなことには無関心であるからだ。しかし私たちの知っていることのすべての中にも、いくらかは真実を保持している。これが私たちの個人的な真実であり、それは私たちの個人的な、知性的な生活に属している。というのも、知識と真実はマインドに属しているからだ。さて、人間の知性的な生活とは、その人が何かを真実だと信じ、そしていかなる形であれ、それが非難される時に不安を感じるということ以外の何物でもない。その人が真実だと信じていることにより多く価値を置くほど、彼のマインドに疑いが入ってくる時にそれだけ多くの不安を感じることになるのだ。これは、誘惑の中でもまだ軽い方である。その状態では、人間は何を真実として信じ、価値を置くかについて考えなければならないし、それから疑いと戦わなければならない。価値を認めないものについて誰も誘惑を受けることはあり得ないことを理解しなければならない。その人が価値を置くことに関してのみ、誘惑を受け得るのである。誘惑の意味は、人間が真実として価値を置くすべてのことを強めるということなのだ。福音書全体を通して、人間が自分自身でもがき苦しんで戦わなければならないという概念は明らかである。福音書は人間の内なる発達と進化についてのものである。このことは内なる闘争を要求している ― つまり、誘惑が必要不可欠なのだ。しかし、人々は時として、真実のために戦わなければならないし、それに関する誘惑も通過しなければならないという概念に対し、不快感を覚えることがある。しかし、知識のために戦うことは、自分自身と戦うことと同じくらい必要不可欠である。

 それでは、善に関する誘惑を取り上げてみよう。これは知性的ではなくて感情的なのである。それは人間の意志の側面に属することであって、思考に属するのではない。人間の意志の基礎とは、その人が善と感じることなのである。人は誰でも、自分が善と感じることに従って決意したり行動したりする。そして人間の意志のすべてがその人の自発的な人生に属している。善であるとして自分自身に印象付けられたこと以外に何事も、人間の自発的な人生を作り出すことはない。もしある人間が善として保持していることのすべてがその人から取り去られた場合、その人の自発的な人生は終わってしまうだろう。同様に、もしある人間が真実であると信じていることのすべてがその人から取り去られた場合、その人の知性的な人生は終わってしまうだろう。さて、福音書ではすべての真理はキリストによって与えられた教えに関係している。そして、すべての善は神の愛と隣人愛に関係している。ところで、ある人間が愛することなら何でもその人は善と見なし、善と見なしたことによってその人は決意し行動する。もしその人が自分だけを愛する人ならば、その人にとって善とは自分自身に良いことだけを意味するわけだ。そして自分自身に良いということに当てはまらないことなら何でも、その人は悪と見なすだろう。意志の発達は愛の発達を通してなされ、愛の発達は自己愛を犠牲にしてなされる。さて、人間は真実であるとして価値を置いていることを通してのみ知性的に誘惑を受ける可能性があり、彼が愛していることを通してのみ彼の意志と行動に関して誘惑を受ける可能性がある。また、本当の意味でのすべての誘惑は言葉の真理 ― つまり、福音書の教え ― と言葉の善についてのものであり、真理に関する誘惑とは異なった、善に対する誘惑は、ある人間が自己愛のレベルを超えて、愛の源としての神の存在という感覚を通じていわゆる慈善とか、隣人愛へと変わり始めるときに始まるのだ。真理に関する誘惑は必然的に善に関する誘惑よりかなり以前に始まる。しかし、もし人間の中に生来の慈善のようなものが一切備わっていなければ、真理に関する誘惑を通過するのはもっと困難になるだろう。真理は人間が意志の方向を変えうる前に、 ― つまりその人が何を善と感じるかという感情を変えうる前に、まず人間の中に入って成長しなければならない。新しい善がその人の中に入ってくるのを感じ始めたときに、2つの感情が交代するだろう。その後、その人は新しい善と彼が以前に善だと感じていたこととが闘争するのを感じるだろう。しかしどんなにその人が善に関して失敗するとしても、この時まで彼は真理を持ち続けなけらばならない。その人は本当に低次と高次の2つのレベルの間にいる。そしてすべての本当の誘惑はこのような場合の時にのみ始まるのだ。低次のレベルはその人を惹きつけ、その人はその2つのレベルの間に道を見出さなければならないからだ。実際のところ、その人は自分自身を酔っ払いのように少し引き上げたり落としたりして、その段階から離れようとしているのだ。しかし、もし善に関する誘惑が本当に始まっているのなら、それがどんな結果になろうとも、どんな時でも、その人は失敗やその人が保持している真理と戦うという明らかな失敗をしてはならない。もしそうすれば、その人はそれぞれの失敗において、真理の感覚を失っていくだろう。その人が何であれ、また何をしようとも、その人は受け取った真理を保持し、その人の中で生き続けるようにしなければならない。
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2006年10月30日

新しい人間 第2章 福音書における誘惑の概念 パート1

私たちはこの次の章で、水がワインに変わる奇跡を研究することにしよう。それで、内面的な、あるいは心理的な意味での水がワインに変わる奇跡とは、イエスが教え始める直前ぐらいの頃に、彼が個人的な進化において到達したある一定の段階についてのことである。イエスが受けた誘惑について考慮するのと同様に、これと関係して、福音書における一般的な意味での誘惑の概念も考慮するべきかもしれない。さてここでは、普通では理解されないことを明確に把握することが必要である。何を把握するべきかというと、イエスは内なる成長と進化を経験しなければならなかったということである。彼は完全な状態で生まれてきたわけではない。彼が誘惑に耐えることも、あるいはあのような絶望も経験しなかった場合どうなるのか。宗教的な人々の中には、キリストが最初からあのような、彼にとっては何でも可能だというほどの例外的な力を持っていたと考えるという間違いを犯す人もいる。しかし、一例として、イエスがある種の形の病気を癒すことの困難を述べて、その治療を引き受けることができるようになる前に、もっと多くの祈りと断食が必要だと言っている。後でこういった例をいくつか研究することになるが、ここで言えるのは、その限界を超えた力について最も並外れた観点が存在するということだ。イエスが地上で持った力はあまりに大きいので、人々は口々に、「もし彼が神の子なら、なぜ彼は世界中すべての病気を治し、すべての人々を改心させなかったのか?」と議論さえもしたという。これは人々によって用いられた同じ種類の議論だが、「もし、神がいるのなら、なぜ痛み、病気、苦しみ、戦争などを地上で認めているのか?」とも言っている。その2つの議論の全体的な立場は、共に間違っている。地上における人生の意味の概念が把握できていない。 ― すなわち、個別の進化と復活の概念である。

     *   *   *

 この章の主題を可能な限り明らかにするために、上で使われた言葉を繰り返そう。イエスは内なる成長と進化を経験しなければならなかった。この点から始めよう。イエスは完全な状態で、充分に発達して、充分に進化した人間として生まれてきたわけではない。逆に、彼は不完全な状態で生まれてきた。長い間予言されてきた、ある仕事を成し遂げるために。彼は人類の歴史における決定的な時期に、福音書で「地」と「天」と呼ばれる2つのレベルの間の連結を再構築しなければならなかった。それにこのことは実際に、彼自身の中で為されなければならなかった。そうすることで、全体的存在の宇宙(神的存在のいくつかの違う階層を通って絶対的存在にまで拡張する宇宙)の高次のレベルからの影響力のための通路を再開して、
地上の人類にまで到達できる。だから人間にとって内なる進化の可能性をもつことができるようになるし、歴史のある一定の時期やサイクルの間にある種の知性的な文明が存在することも可能になるのだ。このような時期にイエスは、その絶頂で「信仰が地上で見出される」かどうか自問した。「とはいえ、人の子が来る時に、信仰が地上で見出されるだろうか?」ここで挙げた言葉もキリストの言葉であり、これらの言葉が示唆するのは、信仰がこのサイクルの終わりに地上で見出されるかどうか疑っているということだ。

 イエスは、自己の中の人間と神に橋渡しをなければならなかったし、このようにして天と地との間の連結を再構築しなければならなかった。彼は自分の中の人間が高次のあるいは「神的な」レベルに従属するようになるために、自分の中の人間が内なる進化をする際のすべての困難を経験しなければならなかったのだ。私たちにはそのうちのごくわずかしか見ることが許されていないが、終わりのない内なる誘惑を通って、この進化が完全なものになるまで、彼は自分の中で試行錯誤を重ねながら、この進化のすべての段階を通過しなければならなかった。そして、このことすべてが起こるのは長期間にわたってである。それについて私たちが知っていることは、最後の屈辱といわゆる十字架の磔刑の破局によって終わるその後半生中に彼が与えた教えと、前半生のごくわずかな部分だけに過ぎない。しかし、その間には比較的長い空白期間がある。この間については何も語られていない。この期間に彼がどこで教えを受けたのか、あるいは誰によって彼が演じることとなった最後のドラマのための指導を与えられたのか、私たちには分からない。そのドラマの先駆けは洗礼者ヨハネによって与えられたが(誰が彼のことを一瞬でも分からなくなるだろうか)そして、そのドラマの宿命付けられた絶頂は、イエスによって、多くの場所で指し示されているし、しかも、水をワインに変える奇跡において、彼は母親に対しこのように言った。「私の時はまだ来ていません。」(彼は「母」とは言わず、婦人と言った。)それでも、宗教的な人々の中にはイエスが十字架に磔にされたのはピラトの所為 ― 言わば、偶然にそうなったと想像する人もいる。この見方は不条理だ。彼は自分に割り当てられた役目を果たさなければならなかった。それは前もって手はずを整えられていたのだ。

 さて、最も早くイエスの発達に言及している箇所では、彼は知恵と身長が進んだと言われている。彼はひとつひとつの段階を確実に進んできたのだ。ルカによる福音書において、こう言われている。「幼子は成長して、精神的にますますたくましくなり、知恵に満ち、神の恵みに包まれていた。」(ルカによる福音書2章52節)(訳注:原文は2章52節となっているが、聖書には2章40節にこの文がある。)ルカはまた ― 彼はイエスを見たことがない ― イエスが12歳の頃、彼の両親が3日間捜し回った後、神殿の中で見つかった時の、イエスの最初の言葉を記録している。彼の母は言った。「息子や、なぜこんなことをしてくれたのです。おわかりですか。お父さんも私も心配して探していたのです。」これに対しイエスが答えた。「どうして私を捜したのですか。私が自分の父の家にいるのは当たり前だということを、知らなかったのですか。」「地上の父」と「天の父」との間の違いに注意しよう。 ― つまり、最初の地上的な誕生という概念と、キリストの教えの主題となった2番目の高次の誕生との間の違いである。12歳の時でさえ神殿で彼の話を聴いた人々は「彼の理解と受け答えに驚いた」。ここでの、イエスの理解が進んでいくという考えは、全くはっきりしている。しかも彼が十分に内なる成長を遂げ、彼の最高の発達を達成するまでに、長い期間が経過しているのは明らかである。福音書では、最高の発達をイエスが神の栄光を受けた瞬間と呼んでいる。この彼の進化の最終的な達成はユダがイエスを「裏切る」ために夜の闇に出かけていった時に始まった。そして、イエスは残りの弟子たちに言った。「今や人の子は栄光を受けた。」しかし、そのような時でさえ、進化はまだ達成されていなかったのだ。というのも、彼は明らかにあと2つ、それ以上のとても厳しい誘惑を経験しなければならなかったからである。 ― ゲッセマネの園での誘惑で、彼は祈った。「父よ、できることならこの杯を私から取り除けてください。しかし私の願いではなく、御心のままに行ってください。」それと十字架上の誘惑で、彼は叫んだ。「わが神、なぜ私をお見捨てになったのですか?」ここで重要なのは、キリストが神の栄光を受ける前 ― つまり彼の十分な発達の前に、3年間教えを説いていたことである。

 そこで、私たちも自問してみよう。「どうやって内なる進化は達成されたのか?」すべての内なる発達は、内なる誘惑を通過することによってのみ可能である。悪魔からキリストが受けた3つの誘惑は、マタイとルカによる福音書の初めの部分に詳細に述べられているが、マルコによる福音書には、「野獣」という用語で、ごく大まかに指し示されているに過ぎない。ヨハネによる福音書には、このことについて何も書かれていないが、しかし、この福音書においてだけは、水をワインに変える奇跡がキリストの教えと奇跡の出発点であるとされている。今は、ルカによる福音書で与えられている、初期の3つの誘惑を研究しよう。そうすれば、イエスが誘惑という方法による発達を経験することで、進歩しなければならなかったし、だからこそイエスは内なる自己を征服することによって、内なる成長段階を通過しなければならなかったことに、私たちは気づくだろう。しかし、福音書で与えられているような目覚めていない状態の人類という概念は、人類が悪の力の中にいるということであるのを忘れてはならない。このことは、人間が悪い霊に取り付かれているという概念を表している。つまり、人間が、悪い霊として人格化された悪い気分や衝動や思考の力の影響下にいるということだ。その悪い霊の目的は、人間および人類の破壊である。福音書の概念は、人間は継続的に、悪の力によって弱められてきているということだ。悪の力は、人間の外側にではなく、人間の中にあって、人間はそれに同意している。人間が自分自身の中にあるこのような力に同意することによって、人生における進歩が妨げられてしまうことになるのだ。悪の力とは人間の中で、人間自身の性質、まさしく生まれつきの性質である人間の自己愛、エゴイズム、無知、愚かさ、悪意、自惚れ、それに五感の感覚だけから考えたり、また目に見える世界や、外側の人生の表面をだけを現実だと受け取ったりするという性質である。こうした欠点は集合的に悪魔と呼ばれている。悪魔というのは未発達の人間が持つ何でも誤解してしまう恐ろしい力、つまり何でも間違って接続してしまう力を表す名前である。悪魔というのは、すべてのこのような欠陥、すべてのこのような人間の誤解の力、それにすべてのそういった誤解を伝達した結果の集合体なのである。だから悪魔はある観点からは、中傷者あるいは醜聞を起こす者と呼ばれている。そして、もう一つ別の観点からは、告発者と呼ばれている。しかし、もう少し明らかに、悪魔の意味するところを見ていこう。その時私たちは、誘惑が本当は何を意味するのかを理解し始めるだろう。

 ルカによる福音書の中の、キリストが悪魔から受けた誘惑の話において、イエスは40日間荒れ野の中にいて、「悪魔から誘惑を受けた」と書かれている。この40という数字は、ノアの洪水の話にも、雨が40日と40夜降り続いたというところに出てくるし、イスラエル人が40年間荒れ野をさまよったという寓意的な話にも出てくるし、モーゼは荒れ野の中を40日40夜断食して、その後石の板に刻まれた十戒を受け取った。さてここでは、ルカによる福音書で、荒れ野の40日間が誘惑という概念に直接つながっている。

 「イエスは荒れ野の中を霊によって引き回され、40日間悪魔から誘惑を受けた。その間何も食べず、その期間が終わると空腹を覚えられた。」
(ルカによる福音書4章1節〜2節)

そして、この誘惑の期間の最初に生じる誘惑の描写が来る。それは次のように表されている。

 「そこで、悪魔はイエスに言った。『もしあなたが神の子なら、この石にパンになるように命じたらどうだ。』」
(ルカによる福音書4章3節)

その皮相的で文字通りの、あるいは最初のレベルの意味を取り上げてみよう。キリストは空腹を覚え、それで悪魔が石をパンに変えたらどうかと勧めたということだ。

 「するとイエスは、『人はパンだけで生きるものではないと書いてある。』とお答えになった。」
(ルカによる福音書4章4節)

文字通りのレベルでは、これは単に見ての通り ― 物理的な誘惑である。しかしながら、上記の節でイエスは荒れ野の中を40日間引き回され、「悪魔から誘惑を受けた」とあるのに注意すべきである。仮に荒れ野が文字通りの物理的な荒れ野だったとするならば、彼がどうやってこの期間中ずっと誘惑を受けていたのかについて、一言も述べていないのはどういうことなのか? ただ単に彼が飢えていたに過ぎないと言えるかもしれない。しかし、内なる発達との関係において、私たちが理解しなければならないのは、荒れ野という用語によってマインドのある状態、一般的な内なる状態が文字通りの荒れ野に譬えられることである。 ― つまり、人間を案内するものが何もなく、人間がもはや慣れ親しんだ物事の間にいられないで、荒れ野にいるという、苦痛とうろたえと混乱の状態である。その状態で人間は、試練として独り完全に取り残され、どちらの方向に進むべきかも分からず、人間自身の決めた方向に進んではならないのだ。このこと自体が誘惑なのである。というのは、いつでも彼は、意味に飢えているからだ。なぜ人間は慣れ親しんだことを手放し、荒れ野の中へ行くべきなのか? 彼はパンに飢えている ― 文字通りのパンではなく、私たちが主の祈りの中で求めるパンである。主の祈りでは、間違って「日ごとの」パンと訳されているが ― すなわち、ガイダンス、物質を超えた次元のパンである。そして、文字通りの明日のパンとは、実際には私たちの人生の発達のためという意味で、私たちの今日、今と同じような人生のためではなく、なる可能性のある人生のための、私たちの成長のサポートに必要となるパン、理解の連続的で不可欠な段階のためのパンを意味している。(というのも、主の祈りは内なる進化についての祈りであり、求めたパンというのは、内なる進化に不可欠な理解というパンのことである。)そのような状態において、誘惑とは自分でパンを作り出すことである。 ― つまり、自分自身の発想と、自分自身の意志に従うことである ― 自分の作品に石と漆喰の代わりに煉瓦とアスファルトを用いたあの「バベルの塔」の建築家たちと、全く同じである。彼らは自分の発想から新しい世界を作り出すことができると思い込んだ。なぜ疑わしいことを待つ代わりに、もう一度自分自身や人生に頼ろうとしてはならないのか? マタイによる福音書において、この誘惑に対するキリストの答えは、次のとおりである。

 「人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる。」
(マタイによる福音書4章4節)

明らかに分かることは、悪魔がキリストに、彼の状態を和らげるために自分でパンを作ればどうかと尋ねている。 ― すなわち、悪魔は彼に神の言葉を待てばどうかとは尋ねていない。悪魔は言う。「もしあなたが神の子なら、これらの石がパンになるように命じたらどうだ。」それは、あなた自身の力と発想で、自分に栄養を与えよということだ。しかし、キリストの使命は、荒れ野における誘惑の後すぐに始まったが、真理と意味をキリスト自身がでっち上げることではなく、真理と、神の言葉 ― すなわち高次のレベルの影響の意味を理解して人々に教えることなのだ。その試練とは彼自身の自己意志と、高次のレベルの意志に関することであった。彼は自分の意志ではなく、「神」の意志を為さねばならなかった。彼は、自分の中にある低次の人間的なレベルを、高次のあるいは神的なレベルの意志の支配下に持っていかなければならなかった。誘惑を受けたのは、ここで言う人間的なレベルである。というのも、イエスは人間の母親から生まれたからだ。低次のレベルのことを高次と取り違えるということは、人間を滅ぼすことになる。というのはそのとき、彼は自分に属していないことを自分の所為にすることになるからだ。ある人が誘惑に駆られて、「私は神だ。」と言って、「神は私だ。」とは言わなかったとする。もし彼が「私は神だ。」と言うならば、彼は自分自身と神を低次のレベルから同一化している。このことは彼を滅ぼす。もし彼が「神は私だ。」と言うならば、彼は自己意志を放棄して、神の意志を彼の中の「私」にするだろう。だから彼は、神 ― つまり高次のレベルの影響下にいて、それに従わなければならない。悪魔はイエスに、「もしあなたが神の子なら…」という言葉で話し掛けたことに注意しよう。しかも悪魔は、イエスがあたかも神のレベルにいるかのように、イエスの望む通りにすることができると勧めている。これらのことすべてはイエスの中であった。それは、彼の中で起こったのだ。そして、この誘惑は全く単純に食欲、この場合、飢えを克服することに関係するものと受け取ることができるけれども、明らかに他の、より奥深い意味がその文字通りの意味の背後に横たわっていて、そのような意味が自己愛と力 ― そして暴力という問題と関係する。それらの問題の中に人間的性質が根ざしているのだ。イエスは、自分の中に女性 ― 彼の母親から受け継いだ人間的性質を持っていた。課題はそれを変容することであった。このことは、2番目の誘惑においてまったく明らかである。そこでは、キリストはこの世の目に見える世界すべての力を提供すると言われた。悪魔は、キリストを「高いところ」に連れて行き、この世のすべての国々を一瞬のうちに見せていることで表現されている。

 「悪魔はイエスを高く引き上げ、一瞬のうちに世界のすべての国々を見せた。そして悪魔は言った。『この国々の一切の権力と繁栄を与えよう。それは私に任されていて、これと思う人に与えることができるからだ。だから、もし私を拝むなら、皆あなたのものになる。』」
(ルカによる福音書4章5節〜7節)

 これは、誰の中にもある地上的な権力と心の奥にある自惚れに関する誘惑である。それはまたしても、自己愛の方に向かっている。それはこの世の愛とその所有を含んでいる。悪魔はキリストにこの世界を与えようとする。権力(権威)の愛と所有の愛は自己愛の2つの側面を表している。ここではキリストの中の人間的なレベルは、最も世俗的な獲得と所有欲の力に関して考えられる中でもっとも恐ろしい誘惑を受けているように表現されている。その誘惑がそのように描写されているのは、次のことをはっきりと引き出すためである。世界全体がイエスの前に「一瞬のうちに」 ― つまり同時に見せられたのだ。イエスは答えた。「あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよと書いてある。」すなわち、この世とその所有ではないのだ。その答えは最初の誘惑で与えられたのと同じ理解の土壌から出ている。この世とその所有の愛から離れた何かがある。人間が所有しなければならない何か他のものがある。この高次のレベルは、人間に可能であるとも、既に人間の内部にあるとも両方言えるが、人間の力と繁栄の欲望はその方向を高次のレベルに向くように変えなければならない。しかし、人間がこの方向について知り、確信していたとしても、彼はまだ誘惑を受けることがありうるのだ ― それでもなお。そうでなければ、キリストはこのようなやり方で誘惑を受けることはなかっただろう。彼の人間的な部分はまだこの誘惑に開かれていた。それは五感の圧倒的な効果やここで考えられなければならない自己の興味や自惚れに対する直接の訴えだけではなく、たぶん世俗的な手段や外的な力や権力によって地上の王となることで人類を助けることができるというはるかにずるい概念である。弟子たちはイエスが世界全体を所有して彼らに地上的な報酬を与えてくれる地上の王になると思っていたことを、私たちは知っている。弟子たちは高次のことについて低次のレベルから考えたのだ。弟子たちは最初イエスが何について話しているのか ― すなわち低次のあるいは外面的なレベルの人生とは何のつながりも持たない、高次のあるいは内面的なレベルに達していることを理解できなかった。ここで思い出さなければならないのは、キリストが辿らなければならなかった道が、外面的な人生における失敗そして外面的な無力さにつながり、最悪の犯罪者のためだけに取っておかれた死につながったということである。彼に最後までついて行った者はほんの少ししかいなかった。それはまるで何もかもが役に立たなくなってしまったかのように見えた。確かに私たちが2つのレベルの概念全体を把握していなければ、私たちがこのことを理解するのを期待できるはずもない。しかし、このことについては、後ほどもっと多くのことを語らなければならない。それで、ここで言えることは、ただ単に、本来の意味での誘惑は、これら2つのレベルについてのことであり、一方からもう一方への移行に関係しているということだけだ。もしイエスが完全な状態で生まれてきたとするならは、彼はすべての誘惑を超えてしまっていただろう。彼は新しい人間もそれに至る道も表すことはなかっただろう。このような理由で彼は自分自身を道と呼んだ。「私は道である。」と。
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2006年09月13日

死の門を越えて 第15章 アデプトはどのように死を迎えるか

 「克服した人々はその静謐さで知られる」これは霊的な道の格言である。アデプトは生きていた時と同じように静謐さの中で死んでいく。死は自分自身の過去生の記憶を通して再生の現実性を知った者にとっては少しも恐怖ではない。彼は以前に何度も死んだ。そして、その過程をよく知っている。日々の暝想の時に、意識を脳から退かせ高次の自己に入ることに慣れている。彼は熟知している門を通って出ていき、それからその門を閉ざす時が来たことを知っている。もう二度と戻ってくることはない。アデプトへの道に対する長年の修業を通して、彼は天国に宝を貯え続けてきた。彼は自身を肉体ではなくて、霊であるという考えに慣れている。彼にとって、肉体は地上の次元に建設された観測所に過ぎない。

 彼は撤退への呼びかけが、一つか二つの理由によってやってくることを知っている。ひとつは彼の肉体がもはや役立つ機械ではなくなり、修理の限度を越えたものをつぎ当てするよりも、スクラップにして、新しいものを得たほうがよくて安くつく場合である。あるいは、地上での仕事を完了し、高次の世界へ昇るように召喚されている場合である。彼は死を自由に素直に受け取る。なぜなら、彼を召喚しようとする神の命令でなかったなら、死と地獄のいかなる力も彼を肉体の住まいから追い出すことができないということを知っているからである。

 扉を開こうとしている肉体の過程を待ち受けている時、彼は深く暝想の中に沈潜していき、人生経験の精髄を抽出しようとする。人生が彼に与えた教訓を観察し、彼が学んだこと、まだ完全に獲得していないことを記し、強烈な努力によって、出発の時が来る前に、それらの教訓の認識を完成させようと努める。彼はまもなく、彼の仕事が完了したか、それとも彼の仕事を完成させるために地上に戻るように定められたかを知ることであろう。

 地上生活がまだ彼にとって完成していないということ、そのためまた地上に戻るべきであるということがわかったなら、彼はエーテルの鋳型の原型を構築する仕事にエネルギーを傾ける。それは彼の身体に形姿を与えるものであり、もう一度地上に戻ってきた時、彼の運命を方向づけるものである。彼は種子アトムに自分が秘儀伝授を受けた秘儀の記憶を刻みこもうと努力する。それから、それを「たなびく栄光の雲」でとり囲む。秘儀伝授者はもう一度門を通り抜ける時、その雲をまとうのである。その門は上から見れば、誕生の門であり、下から見れば死の門である。

 明確に根気よく、彼は理想を定式化する。魂が向こうに行った時、その目標に向かうように、そして彼岸の世界を当てもなくさ迷うことがないようにする。彼は三生の輪廻のうちに自由意志を完成させるということを知っている。もしこの人生が過去の努力の成果を生み出していたら、彼は自分の目標が達成されることを予見しながら、ゆらぎない確実さで次の人生に頼ることができよう。この人生との結びつきがゆるんできたことがわかると、アデプトはすぐに次の生の準備をする。

 アデプトにとっては愛する人々との別れというものは存在しない。彼は各魂の霊的精髄を愛することを長い間学んできた。そして、彼にとって銀の糸が解き放たれ、黄金の杯が壊れることは、彼を愛する魂の中で、彼が愛する魂との完全な結合を妨げる障害を投げ捨てたことになる。

 共感がないため、魂の距離が遠い人々と物質的に接触することと、我々が愛する者の真実、不死、不壊の高次の自己と完全な調和と理解をともなった霊的な結合にあるのとではどちらがよいであろうか。実は前者の方が分離であって、後者ではない。高次の意識を持っている人々は、地上の生を営んでいる時、肉体的には独立していても、互いに交流できる。死はただ互いの交流の能力を増進するだけである。彼らは肉体の限界によって立ちはだかる障害がない時には、互いに霊的にはるかに親密となるからである。

 出発の時がアデプトにやってきた時、彼はもっとも愛する人々を、彼の旅立ちを軽くし、旅路の第一段階まで彼についてくるように、彼のもとに召喚する。肉体で来ることができる人々は彼のまわりに集まる。来られない人はアストラルプロジェクションでそこにやってくる。さらに彼より先に死の大いなる門をくぐり抜けた人々も、また戻ってきて境界で待つように召喚される。

 彼のまわりに魔法陣が描かれ、四人の力強い大天使の御名で四方が封印される。ろうそくが頭と足元に灯される。臨終の人が帰還の道を歩む間、全員暝想の中で沈黙して座る。その道は暝想でその次元に昇った時、何度も歩んだシンボルヴィジョンの道である。彼が帰還すると、門が静かに開く。そして、霊眼で見ている人々は、力強き者が彼を迎えにやってくるのを見る。それは彼の教団の大天使である。夕日の最後の光が雲の下からさっと光を放つように、光が彼のベッドの周囲に輝く。肉眼でもはっきり見えるほどである。そして、アデプトの魂は去っていく。

 秘儀の伝授者たちが、死の門を完全な意識をもって通りぬけ、偉大なる秘儀の授与者に迎えられる。これは秘儀の約束である。彼の最後の旅立ちに付き添う秘儀伝授者の同胞たちにも、死の境界に立ち、彼岸の世界をのぞき、彼らの時が到来した時たどる道を自分の目で見るという特権が与えられている。


Dion Fortune著
Through the Gates of Deathより
吉野茂訳

2006年08月31日

死の門を越えて 第14章 死の病理 2

 これまで見てきたように、強烈な恐怖心があると、魂が死の眠りに入り正常で調和した死の過程を経ていくことが妨げられる。だが、恐怖心には2種類あることを念頭におかなければならない。死が到来した時、死と対面しようとしない人の恐怖心と、襲われた人の恐怖心である。後者の場合、死に対する恐怖でなくて、攻撃者に対する恐怖なのである。こうして人生から手荒に投げ出された魂は、その恐怖のため死の眠りにつくことができない。体から抜け出たということも、もはや攻撃者の手の届かないところにいるということすら認識していない。しばらくの間、恐怖と混乱状態が続くが、不可視の援助者の働きによってしずめられる。我々は暴力の犠牲となった罪なき魂のことは心配するに及ばない。その魂は本来の場所に行き、急速に落ち着きを取り戻し、正常に回復するからである。

 だが、その恐怖心が作りだした思念形態については別問題である。この思念形態はその場所での思考環境のなかで、極めて鮮明なイメージとして、罪が犯された現場に残る。そこにだれかエーテル体がゆるく組織化されているため、物質化させる霊媒能力をもった人がくると、思念形態は影のような形姿をとり、さらにもがいている音までも聞こえることであろう。だが、不幸な罪の犠牲者は地縛霊でもなく、殺人のあった場所に出没せざるをえない状況にはないということを明確に理解しておく必要がある。だれも苦しんでいない。それは不気味で不快なことであるが、何も危険はない。適切な方法を用いれば、容易に解消できる。その中で秘教学者としての修練をしていない人にとって適切なものを、私の著書「心霊的自己防衛」に提示してある。

 暴力的な死が起こった地点で儀式を実践することは非常に価値がある。なぜなら、エーテルの中に残された思念形態を消し去るからである。第一に、儀式は心に集中すべき焦点を何ももたない場合よりも、効果的に暝想に集中することができ。第二に、何人かの暝想を同調させ、その働きによる効果を非常に増強させることができる。感情的に緊張やショックのある時に、心を集中して、絶えずめぐりまわっている悲しい思考を消し去ることは容易ではない。だが、暝想を行うことがまったくできない時でも、その前に備えられている儀式次第に従うことはできる。

 次のささやかな儀式は、突然何の備えもなく人生から去った魂に休息をもたらすのに役にたつ。また、後に残された人々の心に安らぎと慰めを与えるのにも役に立つ。儀式の挙行を補助してくれる人がだれもいない時にも、指示された動作を行ないながら、大きな声で朗読する。声を出さずに行なうことはあまり効果的ではない。

 悲劇の場所で儀式を行なうことができない場合、故人と親密なつながりのあるものを儀式の参加者の誰かが手にもっているようにすべきである。

 儀式はひとりでも挙行できる、だが二人で互いに協力しあいながら行なった方がより効果的で素敵なものとなる。我々の用語では、その二人を朗唱者(lector)と司祭(ministrant)と呼ぶ。


   急死、事故死でなくなった魂の平安のための儀式

司祭:
夕ぐれに光がありますように。

朗唱者:
主は我が光、我が救い、だれを恐れることがあろうか。敵は私と戦うために陣を張っている。だが、我が心には恐れることはない。戦いが起こっても、この中で私は満ち足りている。永遠の国で主の善を見ることを信じることができなかったなら、私は気を失っていたであろう。主を待ち続けよ、勇気をだせ、そうすれば主は汝の心を強めてくださる。主を待ち続けよと私はいう。

賛美歌193(A.& M.)「イエス、我が愛する方」

司祭:
(ひざまづいて)
すべてのものを愛する天の父よ、人生の真っ只中で私達から突然とり去られた者に対する私達の嘆きを顧みてください。そして、御身の無尽の慈悲の中で、私達が勇気と自信をもつように強めてください。

全員:
アーメン。

司祭:
(注意を喚起するように右手を挙げ、左手に持っている故人の遺品を胸において)これから私達の友(氏名をいう)を儀式に召喚します。私達とともに慈悲深き父を賛美するために。
(参加者全員、司祭の前に故人が対面して立っていると想像する)

司祭:
祈りましょう。

全員:
(ひざまづいて、故人も一緒にひざまづいていると想像する)

マリアの子、イエスよ。私達に慈悲をたれたまわんことを。
神の子、キリストよ。私達に慈悲をたれたまわんことを。
マリアの子、イエスよ。私達に慈悲をたれたまわんことを。

司祭:
主イエスよ。愛と慈悲の主よ。御身は死の場所に降られ、囚われた魂に教えを説かれました。御身に懇願します。私達の愛する魂が御身の愛の保護の中に入らんことを。おお、よき羊飼いよ。迷える者を探し求め、さ迷える魂を無事に御身の囲いの中にもたらさんことを。

全員:
アーメン。

司祭:
主の祈りをみんなで唱えましょう。

全員:
我が父よ。

朗唱者:
イエスは言った。「労するもの、重荷を持つものは私のもとに来なさい。休ませてあげよう。まことにまことにあなた方に言う。時は来た。そして今は、死者が神の子の声を聞いたなら、聞いたものは生きる時である。闇の中に座す人々は、偉大なる光を見た。死の影に座す者は光がわき上がるのを見た。」

司祭:
おお光の父よ。御身の内には闇も影もありません。御身に懇願します。備えもなく死の門をくぐっていった私達の愛する者のために、御身の御使いをお送りください。迷った羊のように山々をさ迷うことがないように、無事に御身の子、私達の救世主イエスキリストの囲いの中に集められますように。

全員:
アーメン。

賛美歌223(A.& M.)「聞け、聞け、我が魂よ、御使いの歌が高鳴るのを」

司祭:
(ひざまずいて)主よ、御身の僕を平和のうちに去らせてください。「彼は御身に仕えるために再び出てくるように命じられるまで御身の安らぎの内に入るであろう」という御身の言葉に従って。

全員:
アーメン。

司祭:
(立ち上がって、故人が立っていると想像した場所にむかって十字をきりながら)平和の内に立ち去りなさい。愛する友よ、キリストの印とともに。

賛美歌300(A.& M.)「イエスの御名の力に歓喜せよ」

司祭:
神の平安が私達のもとにあるように。夜明けが来て、闇が逃げ去るまで。

全員:
アーメン。


 もしこの儀式を魔術的に効果があるようにしたいのなら、守るべき点がいくつかある。第一に、故人となんらかの繋がりがなければならない。この繋がりにはいくつかの形が可能である。儀式が悲劇のあった場所でなされたなら、そこには場所の繋がりがある。あるいは、悲劇の周年祭として行なわれたなら、時との繋がりがある。故人と親密に結びついたものには、秘教学者達には磁力的繋がりとして知られているものが宿っている。それには故人の磁力を帯びていて、それが最後まで他の人に手渡されたことがないものがよい。もっとも効果的な方法は、これらの繋がりを二つ以上同時に使うことである。

 儀式に参加した人は全員、故人がある特定の場所に立っていると想像すべきである。そして、故人が儀式の中に入ってきて、みんながひざまずく時には故人もひざまずき、皆と一緒に祈ると想像する。これは亡くなった霊との接触点を提供する思念形態を作りあげる。これは物質化現象を引き起こすために行なうのではない。だが、故人を現存させるためには不可欠である。故人の身体の形姿を想像し、同時に彼の名前を呼ぶことは、故人を現存させるもっとも容易な方法である。

 この方法はアストラル次元をさ迷っている亡くなった魂にその旅路を続けさせ、暴力によって備えができなかった死によって混乱した死の過程を完了させるために、その魂と接触したいと願う時にのみ、用いるべきである。悩み続ける我々を慰めるために、亡くなった魂にもどってきてもらうように儀式を行なうことは不適当である。なぜなら、こうして地上に引き留めることは、魂にとって非常に有害だからである。彼の状態は小川を跳び越そうとして着地に失敗し、川岸近くの泥と葦のなかにはまりこんだ人になぞらえることができよう。我々は彼を呼び、彼の注意を引き付け、彼の手をつかみ岸までひきもどす。だが、彼にもう一度新たにスタートしてもらうために、こうするのである。もし、彼の手をつかんで、離さなかったとしたら、彼の目的を妨害したことになる。ひとたび、彼がしっかりした基盤にたって勇気をふるい起こすことができたとしたら、彼は走って跳び越すことができる。そして、今度こそ向こう岸に無事に着地するに違いない。

 死者がひとたび肉体の家を立退いたなら、魂の夜が彼を襲いかかる前になんとしてでも旅を続けさせ、完了させなければならない。もし我々が彼を地上の次元で接触するために彼を絶えず呼び出し続けることによって、不当に遅らせたとすると、彼にふりかかる事態のうち最悪のものにさらしたことになる。それは秘教学者が「生命の中の死」と、そして心霊主義者が地縛霊と呼んでいるものとなる。

 通常、魂のなすがままにさせれば、魂は最終的には向こう岸にたどりつくことに成功するものである。だが、先に指示した方法で、その過程を援助してあげることは、我々の力の及ぶ範囲でできる。


Dion Fortune著
Through the Gates of Deathより
吉野茂訳

2006年08月29日

死の門を越えて 第13章 死の病理学 1

 これまで、我々は死の正常な過程を考察してきた。だが、死の性質とその問題点を理解するようになってくると、死の過程が正常な行程を通らない場合、また魂が物質からの解放に失敗して、不当に中間状態に居残る場合も考慮しなければならなくなってくる。

 死の過程の病理は二つの点で起こる可能性がある。ひとつは臨終の時、死の眠りに陥ることを妨げられた場合である。もうひとつは無事に息を引き取ったのだが、第二の死に移行することを拒んだか、移行できないために中間状態でうろうろしている場合である。その場合、時間がたつにつれて異常さがましてくる。どちらの病理も様々な形態があり、それを詳細に検討する必要があろう。恐ろしいテーマであるが、恐怖を克服する最良の方法は、それに直面することである。そして、これらの問題に直面して取り組まなければ決して知ることができない。その性質を理解してしまえば、一般の人の頭にまといついている迷信からくる恐怖心はなくなるであろう。そして、それらを直視し、処理可能な範囲内に持っていくことができる。

 死と直面する時の精神状態が死の過程を調和のあるものにするかしないかを決定する何よりも大切なものとなる。これから生まれる子供が骨盤で囲まれた生命の門に姿を現わし、その状態によって、その誕生が正常か異常かわかるように、出ていく魂も死の門に姿を現す。そして、頭を先頭にしてこの世界に入っていくように、死ぬときは地上のことや低次のセンターを引き付けるようなことから離れ、高い意識のレベルで出ていかなければならない。高次の意識が不可視の世界で足場を得る前に、低次の意識が死体から強制的に押し出されてしまうことは、とてもつらい体験となる。霊能者は内的次元でこのつらい体験をしている魂たちに頻繁に出会う。彼らは修正され、新しい人生に定着できるようになるまでは、迷い犬のように絶えず戸惑い、困窮している。霊能者が内的次元で行なう奉仕の大部分は、この迷っている魂を「かり集めること」に差し向けられ、彼らにふさわしい場所を見付ける援助をすることにある。

 教会で「不慮の死を免れますように」と祈るのはこのためである。なぜなら、魂は肉体から抜け出る前に、その準備をする必要があるからだ。即死した人の魂、あるいは意識を回復せずに死んだ人の魂は、自然に徐々に死んでいった人には縁のないある困難を克服しなければならない。とはいえ、内的次元には人生から手荒に投げ出された無知な魂を世話し、その困窮を最小限に止めようとする存在たちがいる。これらの見張り人たちは死後の世界に到来する魂を見張りながら鷹のように飛んでいる。そして、困窮の兆候を示す魂がいたら素早く翼をそちらに差し向ける。先にあの世に行った友人が出迎えにきてくれない魂は希である。だが、もし彼らが地上の次元から手荒に投げ出されてしまい、しかももがき抵抗しながら、無理矢理戻っていこうとしているとする。いくら説得しても、彼らは顔を地上の方にむけて、向きをかえ入ってきた新しい次元を見るようにできない。これは死の次元における存在不良状態であり、正常に回復するには熟練した手当てが必要である。

 非常に死を恐れる人はこのような「存在不良状態」になりやすい。彼は苦しみ、困難、危険を伴いながら向こうの世界に生まれることになる。もし彼が息を引き取るまで格闘していたとしたら、偉大なる麻酔医は慈悲深い処置ができず、その魂は完全に意識したまま死の過程を経ていくことになる。そのような魂は概して自分が死んだという事を悟ることができない。彼らは死を意識の消滅とみなしてきたので、もし自分が意識を失っていなくて、しかも、感覚や重量はないにしても、今までと同じ体を保持していたとしたら、彼らが死の門をくぐり、肉体を脱ぎ捨てたということを納得させるには何度も説得しなければならない。彼らは自分が今までと同じような姿をしているのを見ているので、それが自分自身の思念形態にすぎないということを納得させることがなかなかできない。しかも、霊能者以外その姿をだれも見ることができない。彼らは当然この形姿をよく出入りした場所に結びつける。彼はそこにいると考えているので、そこにいることになる。それは霊能者によって知覚でき、敏感な友人ならだれでも感知できる。それが時には非常に不幸な結果を引き起こす。だが、死の到来を自覚できた人は、事態が予測できる。そして、死の眠りから目覚めたとき、肉体のない自分に対する備えができている。そのため、適応することに何の困難も感じない。事実、死の間際まで行って戻ってきた人が、意識が回復した時、自分が生きているということがわかって驚く。始めのうちは自分がまだ死んでいないということを確信することができなかったと報告している。

 死んでいることがわからない死者は、接触できると期待していた人々にふれてもわからないということを見いだしたとき当然ショックを受ける。ベッドの脇で付き添っている人に話し掛けても、その人はその死者に答えないのである。死者は手を伸ばして、人々に触れて、注意を引こうとすると、おこうとしていた肩を突き抜けてしまう。その死者にとって生きている人々は幽霊であり、まったくうろたえてしまう。死者はよく出入りした場所から場所へとさ迷い歩き、彼が知っている人々に近寄っては話しかけるが、彼の話かけにはだれも唖のように反応しない。だが、程なく彼は彼の存在に気が付く人を見いだすことだろう。その人は霊能力をもった人だからである。

 今や我々は重要な問題にさしかかった。特にこの書を読んでいる読者にとっては重要な問題である。これらのテーマに関心をもっている読者は、少なくともある程度の不可視の世界の自覚を、自身が認識している以上にもっていると思われる。それで、読者はパニック状態にある肉体を失った魂の取り扱い方についてはきわめて用心しなければならない。さもないと、溺れた人を救援したこともないのに救援しようとする人と同じ立場になる。読者が経験を積んだ霊能力者でない限り、なしうるもっとも賢明なことは、装備の整っていない状態で救援活動を試みることを拒み、すばやく迷っている魂を掌中におさめ、その魂を正して、死の旅路をもっと光のほうに差し向けることに必要な知識をもった個人あるいは団体に援助と協力を頼むことである。ひとたび魂が深淵を渡ると、後方でなくて前方に光の道が横たわっている。なすべきことは、その魂を地上の次元から押しやり、全力を尽くして、レーテの水に下落していく暗黒の不安定な岸に足場をえないようにさせることである。その魂の方向を転換させ、好むと好まざるをかかわらず、他の岸に泳いでいかせるべきである。どんなに彼がいやだと叫んでも、それがもっとも親切なことである。しかも泳ぐことはやりさえすれば、できることである。ひとかきするたびに「生命の死」という暗黒の岸から遠ざかり、「死後の生」に近づいていく。彼はもがきながら闇から夜明けにむかって進んでいく。進むにつれて道は明るくなっていく。死者が我々のところにやってきても恐れないようにしよう。だが、パニックに襲われている肉体を失った存在は、溺れている人のように形の次元にとどまろうと必死になっている。彼らに首にまきつかれないようにしよう。なくなった魂の臆病さには憐れみを覚えるが、同情してそれにつけ込まれてはならない。そうすることは彼を救けることにならない。かえって彼を恐ろしい運命、地縛霊となる運命に陥れることになる。あらゆる犠牲を払って、形態の次元への執着をとり去り、彼の暗い魂を照らす大いなる光への旅に出発するよう説得しなければならない。

 事故で死んだ人は、能力を完全に保持したまま人生からでていく。通常ぼやっとしているが、困窮してはいない。彼は何も感じず、心は多かれ少なかれ空ろになったり、緩慢に働く。事故で重傷をおったのに異常な強さで行動する人がいるといくことはよく報道されている。事故にあった人は、ショック自体が麻酔作用をもっていて、痛みや虚脱が後になるまでこない。誰かが教えてくれるまで、怪我をしていることに気が付かないこともある。怪我のひどさは常に悲鳴と反比例している。

 頭部の怪我の場合は、亡くなるまでに数日、中には数週間も長引くことがある。そんな場合には、その大部分の人は物質的次元と同様、内的次元も深い無意識状態にある。だが、終わりの時が近づき、肉体が魂を開放する準備ができると、短い夢の期間があり、そこであまり明確にではないにしても内的次元を垣間見る。そのような場合、臨終の儀式は出ていく魂にとって大きな助けとなる。たとえ無意識であっても、枕元で祈りを捧げるべきである。たとえ、深い無意識状態にあろうとも、この祈りを最後の息を引き取るまで続けるべきである。もし、枕元にいることができなければ、そこにあなた自身がいると想像しなさい。そうすれば、あなたは霊的にはそこに存在し、出ていく魂は霊的意識に目覚めると、付き添いがいなくても、あなたを見付けることであろう。こうして多くの援助を与えることができる。そして、魂は意識的な準備がなくても、潜在意識的のもとで出発の準備をすることができる。


Dion Fortune著
Through the Gates of Deathより
吉野茂訳

2006年08月28日

死の門を越えて 第12章 故人との交流

 死者との交流は心を悩ませる問題である。それはまったく無害で問題はないとみなしている人々がいる。「霊を神からのものかどうか試すこと」は不要であり、霊への冒涜であると感じている。他方、死者と交流しようとすることは、いかなる場合であれ、非常に不都合なことが起きてきて、死者にとっても生者にとっても有害であると考えている人々もいる。その中には多くの秘教学者がいる。

 他の問題でもたいていそうであるが、両極端の中央の道が知恵の道である。これらのふたつの観点を検討して、その中央の道がどこにあるか見極めてみよう。亡くなった人々との交流における必要条件は何かを理解することに努めること、我々と彼らとの関係を支配している原理は何か考察してみよう。我々は彼らと意識的に交流しているしていないに関わらず、彼らと関わりを持っているからである。彼らが我々の記憶のなかで生きているかぎり、互いの間に心霊的ラポートがある。我々が彼らに対して、愛、悲しみ、嫌悪、恐怖、いかなる感情であれ、なんらかの感情を持っていれば、我々は彼らと積極的に接触している。すなわち、我々は彼らに影響を及ぼし、彼らは我々に影響を及ぼしている。それ故、亡くなった人々との正しい交流を成し遂げるために力を尽くして努力すべきである。正しい関係を獲得する最も効果的な道は、向こうの世界の正確な知識を所有することである。

 最近亡くなった人は、まだ地上にいた時と同じ意識を持っている。彼は偉大な麻酔医によって入らされた死の眠りから、死ぬ前とまったく同じ枠組みの心の状態で目覚める。この状態の時には、地上から容易に接触することができる。だが、霊媒による交流によって彼の記憶が更新され生き生きと保たれない限り、この状態は急速に消えていく。亡くなった魂が正常で調和のとれた性格の人であったと仮定すれば、この段階でお互いに挨拶をかわしても生者にも死者にも害を与えることはない。事実、亡くなった魂が心に未解決の問題をもっていたり、愛する者のことが心配であれば、死が到来する前にできなかった手配を完了し、重荷をおろす機会を与えることができれば、これ程有益なことはない。時には魂はそうするまで休むことができず、この中間状態にとどまり、心配そうに地上の人に自分の話を聞いてもらおうと努めることもある。そういう魂にとって、霊媒は大きな役割を果たす。

 だが亡くなった魂を扱う際に、次のことは決して忘れてはならない。第一に通常の死の過程においてはこの段階は比較的短く、せいぜい数か月である。第二に肉体を持たなくなった魂を霊媒を通じて絶えず呼び出して、その注意を地上の次元に集中させ続けると、その魂は第二の眠りに陥ることができなくなってしまう。そのことは第二の死の先触れとなる。事実、我々は彼をアストラル的不眠症にしてしまい、古い句が表現しているように、彼は「うろつく」ようになる。霊が、あまりにも長い間アストラル的眠りに入ることができないと地縛霊となり、死の過程をさらに前進して、向こうの世界の次の段階に到達する代わりに、中間状態に自らを適用させてしまうこともありうる。

 一般的に言って、あの世に行った愛する人と一度か二度通じ合うのなら適当でよいのだが、そうし続けることはお勧めできない。なぜなら、我々にとっても彼らにとってもよくないからである。彼らを平和な状態でそっとしておいて、新しい人生の課題をうまくこなし、完全にその体験の中に入っていくようにさせるべきである。我々の側も考慮しなければならないことがある。非物質的状態にある存在との接触は、生きたものに特異な効果を与え、客観的な生活の次元から引き離し、調和を崩した意識状態にする傾向がある。これは交流する相手が最高の存在であっても起こる。肉体の家からでていった後、戻ってくるたびに後の門を閉める用心をする体験をしている人は、みなこのことをよく知っている。こういう事を教えられていない人々は、この過程の必要性もその技法も理解していない。よい指導霊のもとで働いている高級な霊媒の場合、指導霊自身の方が面倒をみて、指導霊の側から門を閉めるように計らう。ところが、彼女を守る指導霊を持たない霊媒の場合、彼女が先ほど経てきた体験で頭をくらくらさせながら、降霊術の部屋から出ていくであろう。もし彼女が敏感な人であれば、半霊的状態になっていることもあろう。霊視能力をもった者が見ると、降霊術を行なっている間に彼女のオーラ領域に引き付けられた一群の存在がとり囲んでいるのが見える。その存在たちは会を閉じる時に追い散らされなかったのである。

 訓練された霊能力者はその門を閉ざしてしまうと、すぐに内的次元の体験を忘れてしまう。思考をもう一度内的次元に集中して思い出すまで、記憶は停止したままである。意識の次元を厳格に分離しておく能力は、霊能力者の健康と安定にとって非常に必要なことである。これは秘儀の技法を教えられたとき、最初に学びとるべきことの一つである。経験の少ない霊媒の場合、そのような技法をまだ身につけていない。また、助言する人もいない。その結果、うまく行かなかったり、悲惨なことになってしまうこともある。彼女は物質的次元とうまく調和を保つことができず不安定な状態になってしまう。そのため、盲信の度合いがしだいにひどくなり、合理的な生活のわくをはみ出し、精神の不安定が現われてくるようになる。

 熟練した心霊研究者による研究については、また立脚点が異なってくる。なぜなら、たいていの場合、彼らは死別した人々の召喚による存在とは別のタイプのものを扱っているからである。彼らは研究に意識的、知性的に協力してくれる存在者、あるいはその存在者の意のままになる存在者を扱う。さらに、研究者は、経験を積んでいくうちに、交流者を傷つけないで研究していくし方がわかるようになっていくものである。

 愛する人を失った人々が、その人と会うためなら、その希望をもう一度提供してくれるところならどこにでもとんで行くということは自然の心情である。だが、そうする場合、注意と識別力が必要である。証拠となるメッセージを得るだけでは十分ではない。生者も死者も傷つけないという条件下でそれを得ているのだという確信がなければならない。このことは肉体を失った魂の状態や気質のあらゆる状況を配慮して、注意深く守らなければならない条件である。

 スピリチャリズムの運動は、断絶していた生者と死者の淵に懸橋をかけて数限りない寄与をしてきた。肉体の死後も生き残るという事実は、理性的な人々からありとあらゆる疑問がだされようとも、それをのり越えて確立してきた。理性的な人々もいずれその証拠に精通する努力を払うようになろう。もし亡くなった愛する人のためにできるかぎりのことをしてあげたいと望むなら、すでに手元にある証拠をもとに生き残りの事実を受け入れ、愛する人々を平和のうちに彼ら自身の道を歩ませようとすることである。もし彼らにうまく行かないことがあったなら、彼ら自身が我々と交信するために必要な手続きを取ることができる。彼らに主導権を持たせるべきである。よほど重大な理由のない限り彼らを呼び戻さないほうがはるかによい。だが、誰かが我々と接触したがっていることを霊能者が告げたとき、そのメッセージに信憑性ある明確な証拠があったなら、応答することにためらってはならない。だが、人間の性分とはどんなものか、注意する必要がある。なぜなら、誰かが死んだと聞くと、手段を講じて、その親戚と接触し、彼らを説得して「座らせる」ように仕向ける霊能者たちがいるからだ。一座いくらで!


Dion Fortune著
Through the Gates of Deathより
吉野茂訳

2006年08月27日

死の門を越えて 第11章 天国

 我々は交霊会で天国のことについてはたくさん聞いている。だが、多くの人がその内容に反発している。なぜなら、すべてのものがあまりにも非常に物質的に表現されているからである。レイモンドという霊が煙草を吸い、酒を飲むということを読んで、天国は期待するに値しない所だと感じている人もあろう。あるいは、天国は黄金の床と絶えずハープが奏でられる所ということを読んで、これは自分にとって魅力のないところだと感じている人もあろう。やや高次の天も霊たちによって描写されている。そこでは芸術家たちは広大無辺のキャンバスに素晴らしい絵を描いているとか、科学者たちは単に見るだけで自然の秘密に入っていくことができるそうである。すべてが喜びに満ちているように聞こえるが、本能的に何かが間違っていると感じさせる。なぜなら、どうも真実のようには心に響いてこないからである。たとえそれが本当だとしても、たぶんうんざりしてしまうだろうと感じる。なぜなら、永年の努力なしの完全性には喜びがないからである。何かを成就することがそんなにも喜ばしいのは、困難を克服した勝利があるからである。努力のいらない天国にはそんな喜びなどあるはずがない。

 また、多くの人にとっては、愛する人のいない天国には少しも喜びを感じない。

 では、我々の最も深い本能を逆撫でするこれらの矛盾した証言に対して、なんと答えたらよいのだろうか。それらのすべてが正しいはずはない。では、全部間違っているのだろうか。それらをどう理解すべきなのだろうか。まず第一に天国は意識の状態であって場所ではないということを理解しなければならない。通常の夢であろうと、白昼夢であろうと我々の見る夢をみればわかるように、純粋な心は空間と時間から独立している。我々は古代エジプトあるいは中国にいると空想することができる。そして、意識の上では瞬時にそこに行くことができる。我々のイメージの鮮明さに応じて、その時代、その場所の景色を見、音を聞くのである。

 我々は死ぬとまず肉体を脱ぎ捨てた心となり、夢の意識の法則に従う。煉獄は良心の呵責と浄化の夢であり、天国は我々の願望の成就の夢なのである。フロイトは神経質な母親に苺を食べる量を制限された男の子について語っている。その子は翌朝目がさめてこう告げた。「ヘルマンは苺をみんな食べちゃった」と。その子は夢の中で前日の満たされなかった願望を満たしたのであった。

 それ故、死の眠りにおいても、天国の段階にある時に到来する夢は、願望成就の夢である。しかし、その夢は単なる空想の満足以上のものである。その夢は心の中に深くいだいていた希望、理想から生じてくる。その夢は我々にはさほど崇高なものには見えないかもしれないが、その夢を見ている魂がその進化を経ていく体験の段階を表している。その魂が教訓を学びとるためには、その希望を完璧に認識することが必要なのである。美女に囲まれたイスラム教徒の天国は、西洋人にとってはあまり魅力あるものではない。だが、それは何千人もの熱狂的な献身者たちに、彼らの信仰を不信心な者たちにも広めるために、犠牲的な死におくらせた力があった。その信仰はもっと複雑な訴え方では理解できない原始的な部族の中では善に対する大きな力となってきた。ゆえに、自分の水準によって人の天国を判断してはならない。人の天国はその人の願望成就のところであって、我々の天国ではないからである。どろぼうの天国は簡単によじ登ることのできる門の家が沢山あるところである。こういう事実を我々は直視しなければならない。

 霊たちを呼びよせ、天国あるいは彼らが行った場所の体験を語ってもらう時、我々は深い眠りの中で見ている夢の話を聞いている。我々が天界の本質とそれの全体との関係について本当に理解させてくれるような話が聞けるのは、マスターと接触できたときだけなのである。生死の輪廻の輪から自由となり、内的次元で人類のために有益な仕事を続けている魂たちの一人に出会うチャンスがあったときのみ可能である。

 最近亡くなった人が話す説明は、ちょうどベッドにいる患者が大病院の働きを説明しているのに比較できよう。その患者は全体のほんの一部しか見ていないし、その意義を評価するすべを知らない。

 霊のガイド、霊の友、亡くなった人を援助することを仕事としている魂によって与えられる説明の場合は、ちょうどその大病院の見習い看護婦から受け取ることに等しい。医師が学生たちに講義するのを聞くことによって、はじめて我々は探求している大組織の意義と範囲を把握できるようになる。

 煉獄は病んだ魂のための病院である。そこで彼らは手術を受ける。天界はまずは保養所であり、それから学校である。少数の人にとっては、大学もあるであろう。天国の低い段階の所では、魂は休息し、健康をとりもどしながら、その魂を憩わせ幸福にする楽しい夢を見ている。だが、この段階でも、その目的が果たされるとその魂は去っていき、次の魂に場所を譲る。

 これらの過渡的段階を理解するためには、ある程度主観の哲学の中に深く入っていかなければならない。すでに確認したように、天国は地獄同様、意識の状態であって、場所ではない。だが、もし物質の本当の真実を理解するようになると、地球もまた意識の状態であることがわかる。現代物理学では、物質は単に力の位置形態に過ぎず、それが均衡状態にあるため静的に見えるだけだということを結論として提示している。一般に理解されているような濃縮された物質というものは存在しない。もしバケツにむこうずねをぶつけたなら、本当には電気的な抵抗にあったのである。受肉はこれらの形態の力を知覚する意識状態である。肉体を脱ぎ捨てること、すなわち、死はもはやそれらを知覚せず、主観的となり、自身の意識内容だけを自覚している意識状態である。死の際に感覚の門は閉ざされる。そうでないと人間は変らないからである。事実、魂の観点から見れば、死とは単に感覚の門を閉ざすことだと言えよう。もし人の意識が五感に完全に限定されていたとしたら、そんな人は希であろうが、その人はそれだけ自分自身の思考で閉ざされている。彼はベッドに何もかも忘れて眠っている魂と同様近づき難い存在となるであろう。

 だが、この死の眠りは楽しい夢と休息しか与えないのだろうか。そうではない。それよりももっと多くのものを産み出す。精神的な修行と暝想の実践に熟知している人は、ある霊的な理想を集中的に心にいだき続けることが、いかに強力な力を持っているか知っている。天国の高次の場所は暝想の山である。その魂は、感覚的印象から退くと、思念形態を構築し、自身に自己暗示を与える。これらの過程は魂が再び受肉する時期が来たとき、受肉する形姿を形成する重要な役割を演ずるものである。

 宇宙のキャンバスにえがく夢みる芸術家は、才能を築いている。地上ではヴィジョンを実現することは、手と目の技に限定される。天国ではそんな限定はなく、体はヴィジョンを見たとおりに現実化される。こうすると才能が訓練され、その魂が受肉するとき、自分の肉体を作り上げることにいくらか上達する。その中で、手と目は内的なヴィジョンと協同して、ものに形を与える。人生から次の人生へと、内的次元の暝想の時期を介在させながら、努力を続け、魂は徐々にそれがなりたいと望むものになっていく。その願望がふさわしいもの、真実のものでなかったなら、煉獄の規則的に周期する期間に、その努力は中和化され無に帰してしまう。昼間編んでは夜にほどくペネローペの織物のようになる。

 地上生活で認識はしたが、到達できなかったことは、天国で成就する。

 この主観的な成就は才能を作りあげ、それを成し遂げる潜在能力を携えて受肉する。人生が認識をもたらした時、たとえ我々が認識したことを成就できないとしても、人生が我々のためにその仕事を成し遂げてくれる。なぜなら、次の生ではこの認識したことは手の届く範囲にあるからである。


Dion Fortune著
Through the Gates of Deathより
吉野茂訳

2006年08月26日

死の門を越えて 第10章 煉獄

 これまで偉大なる麻酔医の慈悲深い働きについて語ってきた。彼は魂が肉体の門をくぐり出るとき、深い眠りを与えるものであった。魂が気が付かないうちに、エーテル体は薄れていって、解消していく。魂は秘教学者達がアストラル次元と呼ぶ意識状態で眠り続ける。

 だが、今やその魂は夢を見始める。地上での人生の記憶はまだ存在している。とはいえ、それは幼い子供の頃の記憶のように薄らぎ、はるか遠くにあるような状態である。だが、その魂は我々が見るようなし方でその時の出来事を夢に見るのではない。その代わり、その魂はその現在の存在状態からそれらを見る。その魂は欲望の世界にいて、欲望を成就したり、葛藤したりする観点からそれを見る。

 もはや脳が意識を妨害することはない。魂は今存在している次元を意識するだけでなく、高次の自己も目覚め、活動するようになる。この走馬灯のように移り変わっていく夢が続いている間、高次の自己は意識の鏡をかかげ、魂にその自身の姿が移った鏡を覗き込むように命ずる。魂はこれらを黙想することを強いられる。魂はそれが霊的な基準から逸脱している度合いに応じて厳しい呵責の念を感じる。分析心理学の用語ほどこの状態をよく説明してくれるものはない。

 魂はその高い側面と低い側面との間の葛藤に苦悶する。この葛藤は主観的なものであり、アストラル的夢の中で表現される。この状態の時、その魂は煉獄にいるといわれる。なぜなら、煉獄とは我々自身の過ちの意味を強制的に悟らせることにすぎないからである。聖者や神秘家がよく描写してきたこの光景は、夢が作られるのと同じよう素材からできている。それは真実に直面するように強制された魂の夢なのである。それ故、この光景は決して無意味で幻想的なものではない。魂、進化、宇宙の応答と明確な象徴的関係を持っている。どの魂も各自の人生体験から引き出された、独自の象徴体系を持っている。それは夢の精神分析を行っているときにも見いだされる。さらに、その魂は自分の宗教的信仰の象徴体系を持っている。これは同じ信仰を持つものが共通して持っているものである。そのため、イスラム教徒の地獄はキリスト教徒の地獄とは多くの相違点がある。他方、共通な象徴もたくさんある。感情を持った人間ならだれもが共通してもつ元型的な象徴体系がある。それは焼け付くような痛み、渇きの責め苦など人間共通の体験から形成されている。

 各魂はこれらの夢を通して、罪は必ず苦しみをもたらす、ということを教えられる。なぜなら、その魂は自己の邪悪さや愚かさの結果を示され、眼を背けずに直視するからである。その魂は夢の描く状態がそのまま現実になったような生々しい想像のなかでありありと感じる。野心家であったシシフォスは、大きな岩を山の頂上まで転がして運んでは、その寸前で岩が転がり落ち、またそれを繰り返すということを永遠に休むことなく行なった。酔っ払いのタンタロスは酒を飲もうとすると杯の酒が口元から後退していくのを見た。こうして各自が弱点の虚しさを学ぶのである。

 秘儀伝授者達は永遠の罰ということを信じていない。心霊能力者はだれもこの信仰を肯定しない。墓から戻ってきた霊も決して肯定する報告をしたものはいない。いったいだれが生と死のわずかな期間に、それに値するようなことができるのだろうか。

 だが、どの霊も浄罪界のことを報告してきた。そこに全面的に尊敬の念をいだいている。そこは永遠の責め苦の炎でなくて、浄化の火である。ちょうど金をその滓が全部燃つき、純粋になるまで溶鉱炉で精練するように、そこで魂は浄化される。だが、浄罪界を一回くぐっただけで、進化の途上でたまった滓全部を燃つくすことができるとは断言できない。ただ少数の魂のみが非常に純粋で強いので、勇敢さを失うことなく非常に厳しい試練に耐えることができる。耐えることができないような煉獄、そこから利益を受けることがないような煉獄には決して入ることはない。そこで、カルマの一部を消去することが許される。それから、残りのカルマを首にまいてこの世に戻ってくる。次の生で苦しみが起こるのはこの償いきれなかったカルマによる。こうして徐々に、浄罪界で浄化すること、地上にいるとき償いをしてゆくことによって、我々のカルマは償われ、そのバランスを修正する。このようにして魂は成長していく。

 煉獄は本来的には主観的な体験である。とはいえ、まったく主観的なわけではない。この体験をしている魂の生々しい夢と感情によって、その周囲に非常に独特の雰囲気を作り上げられる。アストラル界には我々の理解するような時間と空間は存在していない。そこでは気分が空間であり、同じ感情の状態にある人々は互いに引き付けあっている。互いに害しあう憎しみあっている魂、飽くことのない欲望にもがいている魂たちも一緒に集まっている。彼らが作り出す大気によって、可塑的なアストラル的エーテルから地獄の光景が作り出される。このことを理解することは難しいことではないと思う。

 憎しみを持つもの、欲望をむさぼるものはすべてともに集合しあう。そして、彼らは自分たちの間で集合的な雰囲気、一種の大気を作り上げる。その大気には高次の魂、あがないの能力を持った魂を寄せ付けないようにしてしまう。自分では許してもよいと思われる軽微な罪も、無数の魂がそれを極端な形で行なっている領域の中にいたり、その大気のなかで住まなければならないとしたら、まったく異なって見えることだろう。肉の罪に耽ることは、一人で、どちらかといえば清潔な環境でやっていれば、さほど悪いようには見えない。だが、自分の悪徳をまったく同じことをやっている何千人もの仲間と余儀なく行なう羽目となり、しかももうたくさんだと思っても抵抗しがたい衝動に否応なしにつきうごかされるため、やめることを許されないとしたら、たとえどんなに頑固な性癖であろうとも吐き気を催すほどいやになるであろう。これが肉の罪を治療するもっとも効果的な方法である。カルマの主はそれを最大限活用する。

 しかし、魂が生きているうちにその弱さをおおかた超越していたり、あるいはそれにそれほど深くのめりこんでいなかったなら、煉獄の火のごとき旋風の中に滞在する期間は短いであろう。その魂が流れに抵抗しようともがくことによって、すぐに堤の上に投げ出され自由になるからである。だが、だれも自分と似た心を持った仲間の中で、自分の弱さに直面する体験からは逃れることができない。たとえどんなにミサやロウソクや祈りをあげてもこれを逃れることはできない。しかし、我々はその魂に集中してテレパシー的な流れを送ることができる。その流れは霊的な力をその魂に集中して、自覚と反応を促す。こうして煉獄にいる魂たちに心霊治療を行なうことができる。

 多くの人々は、罪のうちに懺悔することなく死んでいった愛する人の運命がどうなるか非常に心配している。「遠隔治療」が物質界に受肉している魂に与えることができるように、霊的治療を煉獄にいる魂たちにも施すことができるとわかれば彼らにとって大きな慰めとなる。もし生きている間にテレパシー的に交流することができれば、死後もテレパシー的に交流することは少しも困難ではない。このことを常に銘記しておくとよい。なぜなら、ともに地上にいる間、互いの心が物質的な手段なしで交流できれば、一方が物質的手段を持たず、もっぱら心にたよらざるを得なくなったとしても、互いの位置は物質的な影響を受けないからである。

 秘教の修行のひとつに、毎晩、一日の出来事を逆に、晩から朝に向かってみてゆくという修行がある。この修行は、心が原因結果という習性となった連続性に自然と従おうとするため、最初のうちは少々戸惑うことであろう。だが、すぐに慣れて、難しさを感じなくなるものである。この修行をするには二つの理由がある。ひとつは心を通常の連続性から離れて働くことに慣れさせ、さらに誕生のベールに突き進んで、過去生の記憶をとりもどすことを可能にするためである。もうひとつはカルマの負債を限度内に保つためである。すなわち、毎日我々が作り出したあやまちを退けることによって、煉獄の負債をふやすことを防ぐためである。もちろん、毎日とり除いていたとしても、その次の日に繰り返していたら、そうたいしてよいことをやっていないことになる。そのカルマの一部を中和しても、もっと多くの不快な性質を身につけてしまうからである。そして、煉獄の偽善者の場所に行くことは確実だからである。煉獄で偽善者の仮面を剥いで、その想像しがたい利己的で臆病な魂を見ること程苦痛なことはない。神の石臼は格別細かく物事を挽く。しかもゆっくりではなく、あらゆることを考慮して挽くのである。

 だが、煉獄は刑罰でも、応報でもない。基本的には魂を癒すところである。地獄の灼熱によって、人生が我々に残した化膿した傷はきれいに癒される。それ故、生きている間に、邪悪なこと、あやまち、弱さであれ、あやまってした事物をできる限り片付けておこうではないか。もし、邪悪な傾向を治すことができれば、地獄は我々に教訓をあたえようとはしない。なぜなら、我々はすでにそれを学んでいるからである。そして、最後に我々の死ぬときが来たら、勇気をもってそこを乗りきろう。その悪夢は長続きしないということを知っているのだから。歯医者に行くような気持ちで煉獄に行けばよい。多少は痛いことがあろうが、耐えきれないほどではない、そしてそれ以上悪くなることは決してない。特に、我々は熟練した腕の中にあるのだということを自覚しておこう。


Dion Fortune著
Through the Gates of Deathより
吉野茂訳

2006年08月25日

死の門を越えて 第9章 死の隠された側面

 肉体の死の過程でさえ、世間で信じられているほど単純なものでない。我々が今日まったくの迷信とみなしている古代人の葬送習慣を産み出したのは、この微妙な次元に対する知識であった。

 息を引き取り、魂は肉体を後にすると、ひよこが卵の殻に関心を持たないように、もはや脱ぎ捨てた肉体に関与しなくなってしまう。ところが、残された人々はそれに関わっている。そして、死別のショックという微妙な問題は、脱ぎ捨てられた肉体のなかで進行し続ける過程をほとんど理解していないことによる。

 愛するものに対する奉仕が完了するには2つの義務を果たさなければならない。一つは死の病理現象が何一つ起きないように、できるだけ速やかに調和を保ちながら塵から来たものを塵に帰すことである。もう一つは、亡くなった魂が向こうの世界に無事に定着し、しばらくの間、休息に入りたいと願うまで、その魂に正しいテレパシー的な交流によって付き添ってあげることである。亡くなったものに対するこの2つの最後の奉仕は非常に重要なことであり、十分気を配って行なわなければならない。また、このことによって悲嘆にくれている我々にも助けとなる。亡くなった人々に対してまだ何かしてあげることがあるのだと感じることができるからである。また、自分自身以外振り向ける相手がいなかったとしたらきっと感情を激発させたことだろうが、いまはそれに無条件に身を任せる自由はないのだと感じることができるからである。

 まず魂が抜け出た直後の脱ぎ捨てられた空っぽの肉体に何が起こっているか研究してみよう。そうすることによって、肉体に対する態度、それの取扱い方がわかってくるからである。第一に、魂の分離は中枢神経系の死を意味するに過ぎない。まだ有機的生命の多くものが肉体自身には残っている。全部が一度に死ぬのではない。実際、死ぬ数日前あるいはもっと前から、魂は肉体からでて、ベッドから1メートルくらい上方で、銀の糸の先端のところで浮遊している。それは眠っている幽霊のように見え、心霊能力を持った人にはだれでもはっきりと見える。この状態が優勢な時には深い無意識状態にあって、苦しみが全然ない状態にある。魂が最終的に離れ、現実的な死が起こるのは、銀の糸が切れた時である。最後の時に、魂に突然意識の回復と復帰が起こる。魂は終わりが近づくにつれ、それ自身の場で意識を回復し、秘教学者達に種子アトムのエッチングとして知られた過程を効果的に行なうために、最後の努力を行なって身体に集中する。

 この種子アトムは物質界の力の核と同じタイプのものであり、魂がその進化過程でずっと保持しつづける。それは再生の過程で重要な役割をはたす。もちろん、エッチングという言葉は比喩である。この核をあるタイプの波動に同調させ、その印象をあるイメージで表したものである。これが済むと、魂は死期が熟したのであり、最後の意識の回復は起こらなくなってしまう。それ故、この意識の回復がないということは、死の過程があるべきように進行しなかったということを意味する。他方、事故死の場合、もし身体が即死状態になるほど破壊されたとしたら、種子アトムのエッチングはまったく不可能である。それ故、魂は第2の死が生ずる前にただちにこの世に再生しようとする。同時にそこには然るべき形で人生からの出口を作るに足る間だけ肉体にいるつもりだけなので、またすぐに出ていってしまう。その眼の中に知性と成熟性が異常に見られる新生児は長く生きられないということに、母親や産婆たちはよく知っていた。彼女たちを見つめているその新生児の眼は大人の魂の眼であった。その魂が彼女たちの手で行なってほしいと要求する行為は、その魂が持つ信仰にしたがって埋葬される儀式であった。その魂は生きたいのでなくて、ふさわしい死に方をしたいだけであった。

 その魂をこの世にもたらすために大きな犠牲を払い、それがただその魂を失うためだけというのでは、その母親に苦難を課しているだけのように思われるだろう。だが、秘教学者なら一つの受肉だけで事物を判断するようなことは決してない。その場合のカルマの記録を調べてみると、このような結果となる運命に導くカルマ的負債があったのか、それとも、そのような負債を見付けることができなかったら、カルマ的な貸し、預金を与えられたかのどちらかであることがわかる。このカルマ的な貸しというものはよく忘れられる点である。時には、カルマの主は我々に負債を負うことがある。その負債のため、1回だけの人生しか考えないとしたら説明できない様なまったくの好運が突然やってくるという権利を与えられる。我々にまったく予期しない奉仕をしてくれた全然見知らぬよきサマリア人は、我々が前生において、生と死の門を開いてあげた魂だったのかもしれない。

 しかし、一旦魂が退くと、ただちに変化が起きてくる。敏感な人ならだれでも霊安室がどんなに美しかろうと、その部屋の雰囲気と、死人のいる部屋の雰囲気とは何か相違があるということに気が付くであろう。生存中、人間は彼の民族の大天使と彼の宗教の救世主の支配下にあるが、死んだ後はこの支配は退く。というよりむしろ彼らは魂に従いゆき、肉体にはもはや何の関与もしないで、肉体のなすがままにさせておく。空白となった亡骸は4大の主の支配下に置かれる。それから、地、水、火、風の元素の力は今まで属していたところから退き、それ自身の世界に帰っていく。この過程において、もっとも原始的な存在形態に属するあるタイプの生命の助けを借りる。その生命は急速に現われまた姿を消していく。私は死物を食べて生きている単細胞生物、腐敗を引き起こす死物寄生バクテリアのことを言っているのである。生きている組織を食べ、病気を引き起こす寄生バクテリアはまた別の問題である。それらの菌は自分たちの日が終わっても、進化の法則に反抗し、物質界から退くことを拒否しているある形態の生命に属している。それらの菌は宇宙法則の反逆者であり、知識が進歩すれば、それらを徐々に存在させなくすることができるようになる。

 霊安室の奇妙な「感じ」と大半の人々が死体に対して持つ恐怖心はエレメンタル界のこの門が開かれることによって引き起こされる。四大の存在者たちは有機物質が分解し各分野に帰っていくときに存在し活動する。敏感な人ならその存在を感じるであろう。そしてエレメンタルはひじょうに原始的な生命形態に属しているので、心を動揺させられる。生きている人が死者のすぐ隣にいることはよくないと言われるのはこのためである。

 だが、神の名において支配者として四大の世界を支配している、四大の大天使と呼ばれている4人の力強い大天使がいる。彼らの名はラファエル、ミカエル、ガブリエル、ウリエルであり、キリスト教の伝統では四人の福音書の作者と同一視されている。それ故、子供の祈りの中にこういうのがある。

  四人の天使様が私のベッドを囲んでいます。
  二人は足元に、二人は枕元にいます。
  マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネ様、
  私の眠るベッドをお守りください。

 死者に対する儀式はどれも亡骸を座天使の前にいるこの四人の偉大な霊の御手に委ねることにある。その霊たちが召喚されると、霊安室でよく感じられるなにか陰欝な雰囲気が直ちに軽くなり、すっきりしてくるであろう。

 肉体が塵に帰ることは、肉体の死の過程の半分にすぎない。なぜなら、エーテル体ダブルと呼ばれる、同様な物質的で、死すべき体がもう一つあるからだ。それはよく電気の体とも呼ばれる。そう呼ばれるのはそれが電磁力が組織化されたシステムだからである。その網のなかで肉体の各細胞と繊維質がビール箱のビンのようにおさまっている。それは体の各部分に生命力を供給し、その生命力によって、分解を阻止し、複雑で壊れやすい形態をした不安定な有機化合物を維持している。

 息を引き取った時、死の転機を決定するのは、このエーテル体の撤退である。魂はその中に組み込まれていて、数時間から三日間までの短い期間、無意識の状態になったままである。そのエーテル体の撤退期間がこの時間を越えて引き伸ばされたり、あるいは魂がエーテル体にある間に目覚めて意識を回復すると、死の病理現象の一つが起こってくる。

 いわゆる幽霊が出た、幽霊が歩いているといわれるのは、魂がエーテル体ダブルにいる間に魂が目覚めてしまったことによって引き起こされる。しかし、何か異常なことが起こらなければ、一定の時間のうちにこの電気の体の電磁力は消費されてしまう。それはバッテリーがあがってしまうことと類似している。すると、魂はその網目からすりぬけ、もはや物質とは何の関わりをも持たなくなる。

 だが、我々が第二の死と呼ぶのはこのことではない。それはむしろ第二の半分の肉体の死と言える。それが進行している間、魂はもっとも深い無意識の中で眠っている。もう、亡くなった直後の魂と接触をはかろうとすることは、なぜ賢明でないのかよくわかるであろう。その魂をエーテルの眠りから起こし、それを幽霊として歩かせてしまうからである。とはいえ、秘教家たちが死者との交流を反対しているとは考えないでもらいたい。この交流を効果的にする正しいやり方とまちがったやり方があるのだ。また、安全で有効に行なわれる時と、そっとしておいたほうがよい時がある。もし我々が死を正しく扱うつもりがあるなら、これらのことをよく知っておく必要がある。現代思想のせいで、大人たちは死の神秘に関して、子供達が誕生の神秘に関して知りたいのに知ることができないのと同じ立場に置かれている。それを黙殺しようとする申し合わせがあり、その問題を取り扱おうとしても、非常に不利な立場にある。


Dion Fortune著
Through the Gates of Deathより
吉野茂訳

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